こんにちは。2023年に香港から留学してきた留学生のレイナルドです。前回は、日本の文化について学べる特別展「和食 ~日本の自然、人々の知恵~」を通して驚いたことや学んだことをご紹介しましたが、今回は広島県にある平和記念公園と、その中にある平和記念資料館についてご紹介したいと思います。
■今回、広島県 平和記念公園と、その中にある平和記念資料館を紹介したかった理由
今回、私が読者の皆さんに広島県にある平和記念公園と、その中にある平和記念資料館を紹介したかった理由は、色んな世代の方たちに“戦争とは何なのか”と、この場所にある資料や遺品を実際に見て考えて欲しいと強く思ったからです。
私は、高校生の頃に世界史の授業で第2次世界大戦について学び、その中で、1945年8月にアメリカが日本の広島市と長崎市の計2カ所に原子爆弾を投下した歴史的な出来事についても学びました。さらに、映画なども通して“戦争とは何なのか”と学んできましたが、実際に留学の機会を得て広島へ訪れてみると、言葉では言い表せない程の衝撃を強く感じ、私たちはもっと深くこの歴史的な出来事と向き合い考えなければいけないと思うようになりました。そこで、今回は私がこの場所へ実際に訪れて強く印象に残ったことや、感じたことも一緒にご紹介したいと思います。
■平和記念公園とは?
昔:映画館や商店が並ぶ広島随一の歴史ある繁華街
今:公園 (1954年から)
平和記念公園は、昔から公園だったわけではありません。広島市に投下された原子爆弾の被爆者や犠牲者を追悼し、平和への祈りを捧げるため1954年に開設された都市公園です。公園内には、世界遺産に登録されている原爆ドームや広島平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、広島国際会議場、その他、たくさんの慰霊碑があります。
■平和記念公園で強く印象に残った場所:広島平和記念資料館/ Hiroshima Peace Memorial Museum
私が、平和記念公園内で強く印象に残った場所は、被爆者の遺品や原子爆弾による生々しい惨状の写真や映像といった資料が展示されている広島平和記念資料館です。私は、この場所へ日本の大型連休(ゴールデンウイーク)を利用して訪れたため、館内は沢山の観光客で溢れかえっていたのですが、誰一人として大声で会話をしたり、ふざけて笑い合ったりする人がいなかったのは、きっと、館内の独特な雰囲気や展示されている被爆者の遺品を通して感じる原子爆弾の恐ろしさに全員が圧倒されていたからだと思います。
それでは次に、広島平和記念資料館で今でも深く私の印象に残っていることを3つご紹介したいと思います。
深く印象に残っていること①:被爆者の遺品「弁当箱」
本館3階(常設展示)にある被爆者「魂の叫び」では、被爆者の遺族から寄贈された遺品がたくさん展示されているのですが、私はその中でも特に、爆心地から600mのところで発見された「弁当箱」の前で動けなくなりました。なぜなら、この弁当箱の持ち主が中学生の男の子の物だとわかったからです。資料館の説明によると、折免滋さん(当時13歳)は、母親が作ってくれた弁当箱と水筒を持って建物疎開の作業現場へ訪れていた時に被爆し亡くなりました。そのため、滋さんの母親が息子の遺体を発見した時は骨だけが残る状態だったそうなのですが、遺体の下から中身が真っ黒に焼け焦げた弁当箱を見つけた母親のことを考えると胸が押し潰されそうになりました。
広島平和記念資料館には、被爆者の遺品と共に必ず「被爆者の名前」「被爆者生前の写真」「被爆者にまつわる話」が添えられていますが、それらを見たり読んだりした後に遺品をみると、当時を知らない私でも残酷な情景が目に浮かび、思わず目を背けてしまいそうになります。しかし、このような体験は、戦争を再現した映画やドラマでは、けして得ることのできない感覚や感情なので、私は目を背けず1つ1つ丁寧に被爆者にまつわる話や遺品と向き合うことにしました。
※建物疎開(たてものそかい):空襲のときに消火活動などがしやすいよう、建物を強制的に取りこわすこと
深く印象に残っていること②:被爆者のその後「N家の崩壊」
本館3階(常設展示)にある被爆者「生きる」では、生き残った被爆者の方たちの“その後の人生”に関する遺品や写真が展示されているのですが、私は、その中でも特に報道写真家の福島菊次郎さんが1952年から約10年かけて撮影した「N家の崩壊」という展示が気になりました。なぜなら、他の展示では必ず被爆された方の名前が書いてあるのに、この場所だけ名前ではなく“N家”と書いてあったからです。
※展示されていた写真や添えられた文章を読んでみると、なぜこの場所だけ被爆者の名前ではなく“N家”または“Nさん”と書かれているのかわかるのですが、とても繊細な内容なので、私の言葉での説明は省略させていただきます。気になった方は、コチラをご覧ください。
戦争を知らない私たちは、表から見えることだけに注目してしまいがちですが、「N家の崩壊」を知ると、生き残った被爆者たちが背負わされた“その後の人生”がどれだけ残酷で、さらに被爆者たちを苦しめたのか知ることができます。戦争や原子爆弾によって平凡な暮らしを奪われ、生きるすべを失い、被爆の後遺症に苦しめられただけではなく、原爆を体験していない人からは理解さずに差別を受ける。どうして、ここまで背負わされなければならなかったのか・・・。「N家の崩壊」は、原子爆弾がもたらした被爆以外影響についても深く考えるきっかけになりました。
深く印象に残っていること③:被爆者が描いた「原爆の絵」
本館3階(常設展示)にある「被爆の実相 8月6日のヒロシマ」では、被爆体験を後世に伝えるため被爆者によって描かれた「原爆の絵」が展示されているのですが、私は、その中でも特に“黒い雨”に関する絵が気になりました。なぜなら、複数の絵の中に“黒い雨”が描かれていたからです。(私は平和記念資料館へ訪れるまで“黒い雨”について何もしりませんでした。そのため、“黒い雨”の正体を知った時はとても驚きました)
資料館の説明によると、この“黒い雨”は放射能を含んだ黒く粘り気のある雨だったのですが、被爆した方の傷つき乾いた体は水を求め、高蔵信子さんの描いた「喉が渇き黒い雨を口で受ける女性」という絵のように多くの人が空に向かって口を開け“黒い雨”を飲んだそうです。結果、この“黒い雨”は多くの人の命を奪い、生き残ったとしても急性白血病や髪の毛が抜け落ちるなどの深刻な放射線障害を起こす原因の1つになりました。この他にも、真っ赤に焼けただれた皮膚の様子が描かれた絵や、水を求め川に群がる人の絵など、「原爆の絵」は写真では捉えきれない当時の惨状を生々しく伝えており、見る者に対して強烈に訴えかけていました。
■広島平和記念資料館へ訪れる時の注意点
体調: 広島平和記念資料館では、被爆者の遺品や原子爆弾による生々しい惨状の写真や映像といった資料が展示されています。そのため、体調不良になる方もいると思います。もし、体調に異変を感じたら無理をせず休憩スペースなどで休み自分の体調に合わせて観覧しましょう。また、訪れる前は心の準備をしておくことをオススメします。
■まとめ
私は、広島平和記念資料館へ訪れる前にドイツのユダヤ人強制収容所「アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所(国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館)」にも行ったことがあるのですが、今回、広島平和記念資料館へ訪れたことで改めて“戦争とは何なのか”と深く考えることができました。と同時に、戦争を知らない世代はたとえ目を背けたくなるような場所だったとしても、今こそ展示されているものの「本質」を捉え、深く考える必要があると強く感じました。なぜなら、「歴史は繰り返す」という言葉があるように、今でも様々な場所で争いごとが繰り返されているからです。その結果、たくさんの人が平和な日常を失い、避難を余儀なくされ、大切な人の命を奪われています。
広島平和記念公園を訪れた後、私の心には「ノーモア・ヒロシマ」という言葉が深く刻まれました。読者の皆さんも広島へ訪れた際は是非、平和記念公園へ訪れ、歴史の教訓を知ってほしいと思います。そして、戦争に目を背けたり、無関心でいたりすることが引き起こす残酷な結末をしっかりと目に焼き付けてほしいです。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。