オススメの場所
2024.10.29

ミャンマー出身の私が日本で見つけたオススメの場所:福島県

■自己紹介

 မင်္ဂလာပါ(ミンガラバー:こんにちは)2023年4月に日本政府(文部科学省)からの奨学金を得て日本に留学する国費留学生として来日した、ミャンマー出身のティリ・ジン・ミィッ・ピューです。私はミャンマーの大学で日本語を専攻し、卒業後はミャンマーにある日系IT企業で4年間働いていました。しかし、日本語や日本文化を学べば学ぶほど、「テキストや授業で得た知識だけではなく、実際に日本で生活をし、さまざまな人と触れ合いながら日本文化を学びたい」という思いが強くなりました。また、将来は自分で会社を設立し、ミャンマーと日本の架け橋になりたいという夢もあったので、それなら日本へ行って国際的な視点で日本企業の経営スタイルを学ぶ方が良いと思い、日本への留学を決めました。現在は慶應義塾大学の経営管理研究科の研究生として学んでいますが、来年の春からMBA過程が始まる予定なので、これからも全力で夢に向かって学び続けます。

※MBA:経営学修士(Master of Business Administration)のこと

■現在の福島県を知っていますか?

 突然ですが、皆さんに質問です。皆さんは「福島県」と聞いて、はじめに何を思い浮かべますか?私の予想では福島県の歴史や魅力よりも、2011年3月11日に発生した東日本大震災や、福島第一原子力発電所事故のことを思い浮かべる人の方が多いと思います。私は、今年の1月と9月に福島県を訪れ、近々3度目の訪問を予定しているのですが、実際に訪れてみると、私が福島県で見て学んだことと、世界中の人たちが想像していることとの間には大きなズレや誤解があることに気付きました。そこで今回は、私が実際に見た福島県の“今”や、この場所の魅力について皆さんにご紹介したいと思います。

2011年3月11日のことについて詳しく知りたい方はコチラをご覧ください

東日本大震災による被害の概況

原子力発電所事故の概況

■七転び八起きの福島県




 2011年の東日本大震災から13年という月日が経過した今年、私は福島県の双葉町を訪れました。双葉町といえば、東日本大震災で津波の影響を受けただけではなく、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって長きにわたり全町民が町からの避難を強いられた場所です。私は、バスに揺られながら窓の外に広がる景色を眺めていたのですが、誰も住んでいない空っぽの家を目にするたび、避難を余儀なくされた人々の苦しみや無念さを思い、胸が張り裂けそうになりました。あの日、あの時、あの瞬間、多くの人の幸せや人生を奪った地震。あの日から時だけが無情にも過ぎていった町には今もまだ多くの傷跡が残されたままでした。

 しかし、そんな傷跡が残る町の壁には、「アートの力で人々の心に火を灯す」という思いから生まれたプロジェクト「FUTABA Art District」に参加したアーティストたちによって描かれた壁画アートを見ることができます。私は命が吹き込まれた壁を見た瞬間、暗く沈んだ町の中に、この町の伝統や人々の思いがほんの少しよみがえった気がして、はじめて双葉町の現状を目の当たりにした時とは別の強い感情で胸がいっぱいになりました。

 ちなみに、双葉町で出会った壁画アートの中で、私が最も印象に残った壁画アートは、双葉町図書館の壁に描かれている「NANAKOROBI YEAH! WOW! KEY!」というタイトルのダルマ絵です。ダルマには「何度失敗してもくじけず、立ち上がって努力する」という意味が込められているそうなのですが、双葉町図書館の壁に描かれているダルマにも「何度転んでも起き上がる」「徐々に双葉町の明かりが増えていきますように」という願いが込められているそうです。この壁画は残念ながら数年後に解体されることが決まっているそうなのですが、廃墟と化した町の中に生まれた新しい希望の息吹だと思うので、残された時間の中で、この絵が双葉町の人々の背中を優しく包んでくれることを願っています。

■福島第1原発1・2号機の当直長として事故の最前線で対応した伊沢さんとの出会い




 今回、私は当時福島第1原発1・2号機の当直長として事故の最前線で対応した伊沢郁夫さんと直接会って話を聞く機会がありました。伊沢さんのお話を伺っていると、当時現場に緊張感が走った瞬間の様子や、苦渋の決断を迫られた時の心情が痛いほど強く伝わってきて、何とも言えない気持ちになります。また、質疑応答の時間があり、私は、

①「あの時、最も困難だった決断は何か?」
②「もし事故の2~3年前に戻れるとしたら、どのような準備を行うのか?」
③「核エネルギーはこの世界からなくなるべきだと思うか?」

 といった質問をしました。すると、伊沢さんはとても丁寧にわかりやすく長年の経験や鋭い洞察力を活かして全ての質問に回答してくださいました。特に印象的だったのは、彼が命を懸けて原発を制御するために下した決断の話や、停電の中で限られた人員と通信手段を活用して対応した時の緊迫した現場の話です。これらの話を聞いていると伊沢さんたちが日本全土の安全を守るために、命をかけて作業を遂行した背景には多くの人々の人生がかかっていたことが強く伝わってきました。

 私は帰宅後に、福島第一原子力発電所を描いた映画「Fukushima 50」とNetflixドラマ「THE DAYS」を見たのですが、伊沢さんの話を聞いた直後だったので、より作品の内容が心に突き刺さりました。皆さんもぜひ、この素晴らしい作品を見てみてください。

■福島県内の大気中の放射線量と食べ物について




※私たちは、元々自然界からある程度の量の放射線を受けています
※1人当たりの年間放射線量
・ 世界平均は約2.4μSv/h
・ 日本平均は約2.1μSv/h

 福島県の話になると、多くの人が「福島県へ行くのは本当に安全なのか?」「福島県の食べ物は安心して食べられるのか?」といった議論を繰り返します。しかし、福島県内では何度も除染実施計画に基づいて大規模な除染作業を進めてきた結果、福島県内の大気中の放射線量は現在、”世界の主要都市とほぼ同水準“になりました。

 皆さんは自分が住んでいる地域の大気中に、どのくらいの放射線量があるのか知っていますか?ちなみに福島県内の汚染作業には、汚染された土の表層を除去したり、落ち葉を取り除いたり、水の浄化作業などが含まれているのですが、このような地道な作業を丁寧に続けてきた結果、福島の放射線レベルは2011年以前の数値よりも低くなっている場所もあります。私は東京から福島へ向かうバスの車内で放射線量を測定しました。すると、東京の放射線レベルは0.08μSv/hで、福島での最高値は1.10μSv/hでした。

 さらに、今の福島県には、地元の住人だけではなく、県外の若者や海外からの移住者も増えています。私は今回、その移住者たちとも話す機会があったのですが、彼らの新しい生活や、福島県への思いを直接聞くこと私の方が勇気づけられた気がしました。

 ですので、福島県内の食べ物も安全です。私は福島県の農家でイチゴ狩りをしたり、福島県沖で取れた海鮮料理も実際に食べたりしました。福島県内の食べ物は全て厳しい基準を通過したものばかりなので、どれも安心して美味しく食べることができます。私は食べるだけではなく、福島県で取れた桃10個入りを購入し、福島県の名物「なみえ焼きそば」もお土産として購入しました!これからは、皆さんも安心して福島県内で取れた美味しい野菜や果物を食べてみてください!

※1年間に受ける自然放射線量や除染作業の流れについて詳しく知りたい方は、ふくしま復興情報ポータルサイトに掲載されている情報をご覧ください。

1年間に受ける自然放射線量についての説明

除染作業の流れについての説明

■まとめ

 今回は、私が実際に見た福島県の“今”や、この場所の魅力について皆さんにご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?私は、福島県に何度も訪れて復興に向けた人々の努力や、地域の豊かな自然や文化について学び、福島県にはまだまだ魅力がたくさんあることに気付きました。また、実際に福島県で栽培された野菜や福島県沖でとれた魚などを食べてみて、福島県の食材は安心して食べることができるということもわかりました。

 現在、私の故郷ミャンマーもクーデターの影響で大きな困難に直面しています。そのため、福島県で見た再生への取り組みや希望を持ち続ける福島県民の姿は私にとって非常に励みとなりました。福島県は訪れれば訪れるほど新たな驚きと感動を与えてくれる場所です。皆さんもぜひ、福島県の“今”を体験しに行ってみてください!最後に、私の故郷をはじめ、困難に直面している世界中の人々にとって、福島県の復興の力が希望になることを願っています。













ティリ ジン ミィッ ピュー

国・地域
ミャンマー
居住地
神奈川県
得意カテゴリ

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